かわむら こども クリニック NEWS  平成11年 3月号


脳死移植について

 さて臓器移植法が確定されて、初めての脳死移植が行われようとしています。今回は、このことについて考えてみましょう。
 この問題には大きく分けて2つの問題が潜んでいます。他人の臓器で、生命を得ること、人間の死を何によって判断するかの2つの問題です。
欧米では心臓を含め移植医療は当たり前の時代になっています。日本で受けられない人も外国で受けるニュースも、年に何度も流れてきます。アメリカでは、年間5000例以上の脳死移植が行われています。ではどうして日本での移植医療が遅れたのでしょうか。いくつかの理由があると思いますが、今から30年前札幌医大で行われた心臓移植がその理由の一つになっていることは確かです。移植の適応があったのか、本当に脳死の判断は妥当だったのかなど今でも疑問が十分に解明されていません。このことは今考えても仕方ないことだし、今まさに行われようとしている事実を大切にしたいと思います。もう一つは国民性の問題もあるかもしれません。人の臓器をもらってまで、生きる必要はないと思っているのが日本人かも知れません。宗教も含めいろいろなほかの問題も関係していることでしょう。
 話を戻して、問題を考えていきたいと思います。他人の臓器をもらってまで、生命を得ることはどう考えたらいいのでしょうか。これには臓器をもらう人と、臓器をあげる人について考えなければなりません。我が子の命を助けるために移植しか方法がなければ、移植を望もうとするのが一般的な親でしょう。しかし自分の子供の臓器を他人にあげることは、誰もいやなことでしょう。このギャップが大きな問題なのです。アメリカでは臓器移植を、「命の贈り物」と呼ばれています。臓器を提供をした家族も、臓器を頂いた人とともに人生を歩んでいくと、喜ばれているようです。
 これと大きな関連ががあるのは、人の死の判定です。脳死は、呼吸などを司る脳幹始め脳全体が全く反応しなくなった状態を呼ぶのです。このような状態では、いずれ心臓は停止(従来からの一般的な死の定義)してしまうのです。心臓が止まってからの移植は成功率が低く、特に心臓や肺の場合には速やかな移植が必要になるのです。脳死の状態は呼吸はありませんが体温もあり、まるで生きているのと変わらないように見えるのです。従来の考え方からは、これを死と受け入れることはなかなか難しいことかもしれません。脳死は本当に、人の死なのでしょうか。医学的な一般常識とすれば、体温があってまるで生きているように見えても、脳死は必ず死に至る状態と考えられているのです。ここで大きな問題は、脳死の判定ということになります。30年前の疑惑もあり、1昨年制定された臓器移植法の中では、脳死の判定基準はしっかり決まっています。この基準は世界でもっとも厳しいもので、いくつかの脳死の条件を満たし、さらに6時間後にもう一度判定するというものです。第三者による客観的な厳しい判定がなされることが、患者さんや国民の理解を得られるもっとも大切なことかもしれません。
 今回の状況で別な意味で気になったのは、マスコミの対応です。この大きなマスコミという大きな力の前では、一個人は全くの無力ということです。今回の提供者は、移植法施行以来初めての例という大きなプレッシャーがあったはずです。本当に勇気のある家族の皆さんだと思います。個人のプライバシーは,しっかり守られるべきものなのです。マスコミにとって大ニュースかもしれませんが、この家族の大きな決断は、歴史上意義ある第一歩なのです。マスコミの対応が、これからの提供者に悪影響を与えることを危惧しています。
 この記事から、臓器を提供してくださいとか、意思表示カードを持ちなさいとか言うものではありません。この機会に人の死について、臓器の移植について考える材料になればと思っています。この移植が成功し、皆さんの理解を得られるようになって欲しいと思っています。(199902/28 AM)
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